"おいない"の京都最新情報

2019年  4月 29日(月)


   【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】
 
 ★「壬生さんのカンデンデン」の愛称で知られる国の重要無形民俗文化財壬生狂言」の春の公開が二十九日、中京区の壬生寺で始まった。
『ガンデンガン』の囃子に合わせて演じられる軽妙な無言劇・壬生狂言は、鎌倉時代壬生寺を興隆させた円覚が、民衆に仏の教えを身振りで伝えたのが始まりとされる。
七百年の伝統を伝え、重要無形文化財の指定を受けて、三十曲を受け継いでいる。
素焼きの皿を豪快に割る「炮烙割(ほうらくわり)」など五演目が上演され、一時は雷雨に見舞われた不安定な天候の下、集まった四四〇人の観客を沸かせた。
「壬生大念仏会」に上演される最初の演目は、太鼓屋が炮烙売りとけんかし、厄除けの炮烙を割るという「炮烙割」。
炮烙割は、市場の出店順を巡る太鼓売りと炮烙売りとの争いを描いて因果応報を伝える演目。鉦(かね)と太鼓、笛の音に合わせ、仮面を付けた演者がユーモラスな所作で笑いを誘った。太鼓売りが高さ約三メートルの舞台から約一一〇〇枚の炮烙を落とすと、大きな拍手が湧き起こった。
最後に、節分の日に家族の年齢や性別を墨書きして奉納された千枚以上の炮烙が舞台の上から落とされる
これが見事に割れると、災いから逃れ福を招くといわれている。
壬生狂言鎌倉時代の一三〇〇年、壬生寺の中興の租・円覚上人が、声が届かないほど大勢集まった群衆に身ぶり手ぶりで仏の教えを説くために始まったと伝わる。五月五日まで。炮烙割は連日午後一時からの初番。有料。
大人 八〇〇円、中高生 六〇〇円、小学生 四〇〇円。 
※ 二月、十月にも催される。
 
 ★ゴールデンウイークがスタートし、京都の社寺は大勢の人でにぎわった。伏見の城南宮では、恒例の平安時代のみやびな王朝絵巻を再現した優雅な貴族の歌び、春の「曲水の宴」が四月二十九日行われた。
お琴の音色が響く柔らかな木漏れ日が新緑を彩る庭園で、遣水(やりみず)と呼ばれる小川のほとりに座った歌人が短歌を披露し、多くの観客はひとときを雅な世界に酔いしれていた様です。
清流にのぞんで詩歌を作り、杯を巡らす曲水の宴は中国古代に始まった遊宴とされ、日本では奈良時代から平安時代中期まで宮中で特に盛んに開かれていたようです。
城南宮では毎年春秋二回開かれて、その都度歌題を定め、宮中衣装の色鮮やかな狩衣や小袿(こうちき)をまとい、公郷や女官にふんした男女七人の歌人が三十一文字の短歌を短冊にしたため、遣り水を流れてくる杯の酒を飲み干すという伝統の儀式。新緑がまぶしいさわやかな風にフジやヤマブキの花が揺れる庭園で、歌人たちは酒杯を乗せたオシドリ形の小舟が流れる前で、上流からゆっくりと杯が流れる中、その場で出された歌題に合わせた歌を短冊に書き、目の前の杯に手を伸ばしていた。今春の歌題は、新元号・令和の典拠となった「万葉集」巻五巻上流からゆっくりと杯が流れる中、その場で出された歌題に合わせた歌を短冊に書き、目の前の杯に手を伸ばしていた。
新緑がまぶしいさわやかな風にフジやヤマブキの花が揺れる庭園で、歌人たちは酒杯を乗せたオシドリ形の小舟が流れる前で、上流からゆっくりと杯が流れる中、その場で出された歌題に合わせた歌を短冊に書き、目の前の杯に手を伸ばしていた。
宴の間には白拍子の舞も静々と披露され、ゆったりと時間が流れる王朝の雅を今に再現し、新緑の中で繰り広げられる王朝絵巻です。
 
清浄華院:「畳供養」2019年
 ★長年使ってきた畳に感謝しようと、全国畳産業振興会が二十九日、日本唯一の「畳供養」がおこなわれる『畳寺の畳まつり』が、「浄土宗大本山 清浄華院で開催される。
畳職人や山伏が見守る中、古畳を組んだ護摩壇で、市民が畳の思い出をつづった手紙やござが焚(た)き上げられた。
畳の需要が年々減っている中で、「畳と暮らす心」を思い出してもらおうと、二〇一五年から初企画した。畳替えによる新たな需要も喚起したいとする。
この日は、僧侶らによる読経の後、十年以上使用した畳で組まれた護摩壇に、全国から寄せられた約一六〇〇通の思い出の手紙や、畳職人が願いを記した「護摩ござ」が燃やされた。参加した人たちはそれぞれの畳との生活に思いをはせていた。
会場の「浄土宗大本山 清浄華院」は、境内の真ん中に約二〇〇畳の畳が敷かれた「大殿」があることから「畳寺」とも呼ばれ、畳職人が多く訪れる場所である。実際の供養は、浄土宗の伝統的な儀式にのっとり、全国より集められた願いの書かれた古ゴザの「畳の護摩ゴザ」を、古畳で作られた「畳の菰」に入れて幽玄な炎で供養する。開催日の四月二十九日は、原材料のイグサが緑いっぱいに育つとして「畳の日」に制定されている。
今年から「畳供養」以外に、畳の歴史や伝統を体感できるイベントを増やし、『畳寺の畳まつり』へと進化。畳職人による「手縫い製作」の披露のほか、カラフルな畳などの「畳珍百景」コーナーも登場する。また、まつりの日限定で「大殿」の畳のイメージと、「畳寺」の文字を合わせた特別なデザインの御朱印もいただける。入場は無料。
 
 三千院で、平安時代作とされる秘仏の出世金色不動明王重要文化財)が開帳されている。五月十二日までの期間限定で、両目を見開いた迫力ある像を間近で参拝できる。境内の金色不動堂に安置されている像で、円珍作とされる。三千院の不動大祭に合わせて開帳している。
扉を開いた厨子には、煩悩を滅ぼす「智剣」を右手に、悪を縛り良いものを結びつける縄「羂索(けんさく)」を左手に持った不動明王が火炎を背に立っている。
また、不動明王の左手に結んだ「善の綱」の先は参拝者が握れるようになっていて、寺では「仏様と握手をしていただくのと同じ。より深くご縁を結んでいただきたい」としている。
 
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"おいない"の京都最新情報

   2019年 4月 22日 (月)  
 
     [京 の 季 節 の 花 だ よ り]
 
 豊臣秀吉が築いた御土居一帯を新緑のアーチが彩る「青もみじ」が、北野天満宮境内で見頃を迎えている。紙屋川のせせらぎが流れ、鳥がさえずる中、参拝者たちが若葉みずみずしい散策路をゆったりと眺め歩いた。
境内西側に広がる御土居と紙屋川沿いの「もみじ苑」には、約三五〇本のモミジが並ぶ。秋の紅葉だけでなく初夏の風情も楽しんでもらおうと、二〇一五年からこの時期に公開している。
観光客らが朝から散策し、朱色の欄干を掛けた太鼓橋、黄色に花咲くヤマブキとの対比にしばし目を向けた。もみじ苑は六月三〇日まで。入苑料は中学生以上五〇〇円。
 
   2019年 4月 23日 (火)
  
     [今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
 
 法然上人御忌大会(四月二十三~二十五日)
法然上人がお亡くなりになられた日に行われる法要で、百萬遍知恩寺で一番大きく重要な法要です。

法然上人がお亡くなりになったられた後、その命日に上人の門弟たちが修した「知恩講」に由来します。
もともと「御忌」という言葉は天皇や皇后の忌日法要を指していましたが、大永四年(一五二四年)当時の天皇である後柏原天皇より「知恩院にて法然上人の御忌を勤めよ」という「大永の御忌鳳詔」が出されました。これより法然上人の忌日法要を「御忌」と呼ぶようになりました。
当初は一月に勤められていましたが、明治一〇年から四月に勤められるようになりました。当山では四月二十三日午後から二十五日午前中までの三日間、日中・逮夜の各法要が勤められ、法要中には利剣の名号を掛け、大念珠を降ろして皆様に繰って頂きます
 
★宗祖・法然上人の年忌法要「第八百八回御忌(ぎょき)」が営まれている長岡京市粟生の光明寺で二十三日、菩薩(ぼさつ)の来迎(らいごう)を表現した「二十五菩薩行道会(ぎょうどうえ)」があり、参拝者らが遺徳をしのんだ。
法然上人の命日は一二一二(建暦(けんりゃく)二)年一月二十五日。御忌は一五二四(大永四)年から営まれているが、明治時代に入って檀信徒が参詣しやすい暖かな四月に改められた。今年も25日までの1週間の日程で行っている。
五日目の法要では蓮台(れんだい)の器を持つ観世音菩薩や柄についた天蓋(てんがい)を掲げる普賢(ふげん)菩薩など「二十五菩
薩」が雅楽の演奏に導かれ、御影堂の周囲や堂内の内陣の周りを練り歩いた。
この後、大導師の法主ら僧侶約六十人が御影堂に入ったのに続き、大僧正の名代の講讃(こうさん)導師が着座して古式にのっとり法然上人の一代記の「歎徳之疏(たんどくのしょ)」を力強く読み上げた。引き続き、同上人の念仏の教えを説く「一枚起請文(きしょうもん)」を僧侶や参拝者らと拝読。堂内に僧侶の読経が響くと檀信徒らは手を合わせて宗祖をしのんだ。
 
   20819年 4月 25日(木)
 
     [今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
 
 ★南区・吉祥院天満宮で毎年四月二十五日に春の「六斎念仏踊り」が行われる。
春と夏の年二回奉納される伝統行事です。鼓ではやし、念仏を唱えながら踊る民俗芸能。重要無形民俗文化財に指定されています。
 
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"おいない"の京都最新情報

 2019年 4月21日(日)


     [今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]      

 

東寺
 
 ★南区・東寺では四月二十一日、正御影供(しょうみえいく)が営まれる。
そびえ立つ五重塔(国宝)は、木造建築の美が際立っています。
高さ五十七㍍の日本最高の塔で、寛永二十(一六四三)年に、徳川家光が再建奉納したものです。
四月二十一日は空海の入寂の日に当たり、御影堂を開扉します。
遺徳を偲び、五穀を供え、盛大な勤行式が行われます。
この日灌頂院の閼伽井(あかい)に掲げる三十㌢×四十五㌢ほどの絵馬三枚は、中央が今年、左が昨年、右が一昨年のもの。この中央の絵のできばえで農家の人々はその年の作柄や天候を占うと言われています。
※ 同時に例月の弘法市も開催される。

 

松尾大社:「船渡御」
 
★京の春を彩る例祭として、古くは松尾の国祭と称せられており、西の葵祭りとも呼ばれる勇壮な船渡御で知られる神輿が船に乗ってレンゲ咲く桂川の清流を渡ることで有名な「松尾の祭り」の神幸祭で六基のみこしが「ホイット、ホイット」の威勢のいい掛け声と春風に乗って順番に桂川を渡った。
平安時代前期の貞観年間から始まったとされ、一千年以上の歴史を持ち、氏子の安全を祈願する神幸祭(おいで)は松尾大社を出発し、桂離宮の辺りで川を渡り、祭典を行い、六基のみこしは各御旅所に納まる。
神事を終えた神輿六基が拝殿廻しの後露払いをする榊御面との面合わせを行い、榊御面、大榊行列等を前列として上桂一帯の氏子地域を巡行。
やがて桂大橋西岸上流で一基ずつ神輿船に載せられ、ゆっくりと川を下ります。
桜が散り、若葉が萌え出で、菜の花が岸を染める春の香気の中、桂大橋東岸での神輿の陸揚げがまた見事。(陸揚げは桂離宮東側から見学するのが一番)
松尾大社:「還幸祭」
 
還幸祭(おかえり)は五月十日に松尾大社に還幸する。 
昔は三月中卯日に出御、四月上酉日に祭礼となっていましたが、明治以後四月下卯日に出御、五月上酉日に還御となり、さらに昭和三十六年からは、四月二十日以後の第一日曜日に出御、それから二十一目の日曜日に還御となっています。
出御祭には松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の神輿(月読社は唐櫃)が、ご本殿のご分霊を受けて、拝殿を三回まわった(拝殿廻し)後、順次社頭を出発し、松尾・桂の里を通って桂離宮の東北方から桂川を船で渡り、左岸堤防下で七社勢揃いし、古例の団子神饌を献じた後、四基の神輿と唐櫃とは西七条御旅所に、二基の神輿は川勝寺と郡の末社に至り、そこに駐輦されます。
 

 

伏見稲荷大社:「i神幸祭」
 
稲荷大神が年に一度、氏子地域を巡行する広くご神徳を垂れたまう大社最重要の祭儀です。
神幸祭神事の後、神輿・神官・楽人を乗せたトラックが本社を出発。
東寺付近の御旅所まで向かい、練り廻しや差し上げを行います。
「お還り」の五月三日還幸祭まで東寺東門に神輿が駐興し東寺での神饌を受けます。
西京区松尾大社の伝統行事「神幸祭」が二十二日、西京区右京区で営まれた。六基の神輿(みこし)が船で桂川を渡る勇壮な船渡御(ふなとぎょ)に、地域住民らが歓声を上げた。
祭りは、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って平安時代に始まったとされ、別名「おいで」と呼ばれる。船渡御は一九六三年にいったん途絶えたが、八十三年に復活した。
神輿はこの日の午前に松尾大社を出発し、昼すぎに桂大橋の右岸に到着。氏子らによって慎重に船に乗せられて川を渡り、左岸で再び担いで河川敷を練り歩いた。額に汗を浮かべた担ぎ手の力強い姿に、集まった住民や観光客は大きな拍手を送っていた。
神輿が大社に帰還する「おかえり」と呼ばれる還幸祭は五月十三日に行われる
 
伏見稲荷大社:「神幸祭」
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"おいない"の京都最新情報

 2019年 4月 19日(金)


     [今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
 

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右京区・清涼寺(嵯峨釈迦堂)で四月十九日、本尊・釈迦如来立像(国宝)のほこりを払う「御身拭式」が営まれた。
平安中期の僧・ちょう然が宋から請来した像で、インド・中国・日本と渡った「三国伝来の生身のお釈迦さま」と言われている。

約八百年前、後堀河上皇のきさきの母の生まれ変わりの牛が死んだ時、釈迦の体を拭ったとされる白い布で、きさきが経帷子を作り、牛に着せて火葬すると、往生したという言い伝えにちなみ、牛が死んだといわれる四月十九日に法要を営んでいる。式は双盤念仏の読経の最中に太鼓と鉦の音がなり、導師が厨子に上がって釈迦如来立像に一年間たまったほこりを丁寧に払った。
続いて毎年この日には身を清めた住職が西芳寺苔寺)の水に香を溶いた香水に浸した白い木綿の反物で、立像の頭から足までふき取った。拭ったあとの白布を往生浄土を望む参拝者に授与するようになったものです。
※ 式で使った反物は死出の旅路にもたせる経帷子(きょうかたびら)の起源であるともされています。事前に申し込んだ人が経帷子に仕立てるという。
 
   2019年 4月 20日(土)

     [今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
 

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建仁寺建仁二年(一二〇二年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(一二五八年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
建仁寺で四頭式という珍しい伝統技法で茶会が開かれます。
もともと栄西禅師は中国から茶の種を持ち帰り、喫茶を広めたことで知られ、その生誕日に茶会で遺徳を偲ぶものです。
 
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"おいない"の京都最新情報

2019年 4月 17日 (水)  

 
     [今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]

 

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稲荷大神が年に一度、氏子地域を巡行する広くご神徳を垂れたまう大社最重要の祭儀です。
神幸祭神事の後、神輿・神官・楽人を乗せたトラックが本社を出発。
東寺付近の御旅所まで向かい、練り廻しや差し上げを行います。
「お還り」の五月三日還幸祭まで東寺東門に神輿が駐興し東寺での神饌を受けます。

 

 浄土真宗中興の祖・蓮如(一四一五~九九年)の肖像画「御影」とともに、真宗大谷派本山・東本願寺から福井県あわら市・吉崎別院まで往復五百二十㌔ある全行程を歩いて往復する恒例行事「蓮如上人御影道中」の一行が四月十七日、東本願寺を出発した。
蓮如(一四一五~九九)が他宗から迫害され、一四七一年、京都を追われ越前・吉崎を拠点に教化した苦労をしのぶとともに、その遺徳を伝えるため、吉崎別院で毎年二十三日から営まれる法要に合わせて一七五二(宝暦二)年(約二百五十余年前)から続く伝統行事。 今回で三百四十二回目を数える。
今年は引率役の僧侶一人と供奉人(ぐぶにん)と呼ばれる門信徒の八人計九人が、東本願寺の大寝殿で「御下向(ごげこう)式」が営まれ、御影が輿に納められた後、リヤカーに載せて「蓮如上人さま、東本願寺をおたーちー」のかけ声を合図に一般参加者も随行、約三十人が台車を引き始め、福井県に向けてお寺を出発した。
滋賀県湖西地域を経て二十三日に吉崎別院に到着。往路は琵琶湖西岸など約二百四十㌔を一週間かけて歩き、蓮如上人御忌法要の後、別の僧侶や門信徒たちが五月二日に吉崎を発ち、復路は琵琶湖東岸沿い湖北、湖東地域を通って五月九日に御影が東本願寺に戻る。

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"おいない"の京都最新情報

 2019年 4月 14日 (日)

  
     [今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]

 

 

上賀茂やすらい祭
 ★北区・今宮神社の摂社・疫社の祭礼「やすらい祭」は、毎年四月第二日曜日(今年は十四日)に今宮神社・玄武神社・川上大神宮の賀茂の三神社で一斉に行われる。
やすらい祭は桜の花を愛で、落花を惜しんで、病魔を退散させ、五穀豊穣を祈願する花鎮めの祭礼。紫野や上賀茂地域で民衆の平安を祈る。

平安時代、花の散る頃に疫病がはやり、これは疫神が花とともに飛散するためと信じて花の精を鎮め、無病息災を祈願したことに始まる、「やすらい花」とも呼ばれる。
京都三大奇祭の一つで、鬼を従えた行列が、笛や太鼓の音に併せて踊り歩く。
「いんやすらい花や」「ヨーホイ」の掛け声とともに、赤熊(しゃぐま)を振り乱して鬼たちが舞います。そして、笛、鉦、太鼓にあわせて行装の一団が囃し、花に宿る精霊が悪霊を誘いだし朱色の花傘(風流傘)に閉じ込めながら各町内を練り歩きます。
この傘に入ると魔よけになるといわれ、一年の無病息災を願った。
 
白峯神宮:蹴鞠05’
★球技の神様として知られ、蹴鞠や和歌の宗家飛鳥井家の別邸があったところで、守護神である精大明神を境内末社の地主神に祀っている上京区白峯神宮で四月十四日、春の例祭「淳仁天皇祭」が催され、神事と舞楽奉納の後、桜の花びらが舞い散る境内で、烏帽子姿と着物姿の蹴鞠保存会のメンバーにより、威勢の良いかけ声を出しながら、右足で白いまりを蹴り蹴鞠を披露する。 同宮に祀られている淳仁天皇(七三三~七六五)の命日に毎年開催されている。      
§蹴鞠について§                   
日清戦争の際、広島の大本営で京都在住の公家が明治天皇に蹴鞠を披露した。その後、天皇から蹴鞠を保存せよとの御下賜があり、明治三十六(1903)年に蹴鞠保存会が出来た(今年で創立百十六年目)。雅な王朝風の遊戯であり、サッカーの元祖とも言われる。  
 
白峯神社:「黄桜と蹴鞠」
 鞠の歴史は、約千四百年ほど前に中国から仏教とともに日本に伝わった。鎌倉時代には後鳥羽天皇のバックアップもあり、「蹴鞠道」として出来上がった。     
公家は「歌鞠両道」といって、和歌と共に蹴鞠は必要条件だった。蹴鞠は勝ち負けがないのが特徴で、使うのは右足だけで、ひざを曲げず、靴を地面に擦るようにして蹴る。鞠を受けたら三回目に上半身は動かさずに相手に渡すのが基本。 蹴鞠の際の掛け声「アリ」・「ヤウ」・「オウ」の意味は神様の名前を呼んで応援を請うている。アリは夏安林、ヤウは春陽花、オウは秋園。鞠の製法は裏返しにした二枚の鹿皮を、馬の背皮で縫い合わせている。蹴鞠を行う庭は約十五㍍四方の大きさで、四隅に掛かり木があり、神様が宿っているとされ、鞠庭に入るのは、神仏に祈るような心境。装束にも特色があり、装束や烏帽子は位によって色や形が違う。袴は張りがある葛で作られる。鞠靴は革の靴と足袋をくっつけ形で、脱げにくい。
※「逸 話」 蹴鞠で脱げた中大兄王子の靴を藤原鎌足が拾ったことで二人が接近し、六四五年の大化の改新につながったと言われる。

                
  2019年 4月 16日 (火)   


     [京 の 季 節 の 花 だ よ り]

松尾大社:やまぶき
 ★約三千株が咲き誇る関西随一の山吹の名所、西京区松尾大社では、境内を彩るヤマブキが早くも満開となった。四月十日から「山吹まつり」が始まった。五月五日までの期間中、各種のイベントが行われる。 お酒の神さまと親しまれている大社は新緑の木々と共に境内には一重や八重咲きやシロヤマブ木など三種類、計約三千本のヤマブキがある。   境内を流れる一の井川沿いでは、黄金色の八重の花が鈴なりにしだれるように咲き、かすかな甘い香りを漂わせている。 この時期は境内の小川では、風に舞う桜の花びらがゆったりと流れる中、川辺で咲く黄金色のヤマブキとのコントラストが優美な情景で美しい。四月十一日、十二日の両日の午後六時から九時まで一の川沿いの山吹と名園「蓬莱の庭」がライトアップされ、無数の花が夕闇の中に照らされ、川面にゆらめく。杯殿にて奉納演奏が行われる。    

  

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"おいない"の京都最新情報

 2019年 4月 14日 (日)   


     [今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
 
 ★北区・上賀茂神社で四月十四日、優雅な雰囲気の中で行われる、平安時代の雅の世界を再現する「賀茂曲水宴」が催される。
曲水宴の起源は中国・周代で、もともと三月の「上巳日」に水辺に出てみそぎ・はらいを行ったとされる。
曲水宴は、中国から伝わり、平安時代に宮中や貴族の間で盛んになった
上賀茂神社でも一一八二(寿永元)年に初めて行われた。
約五百坪の美しい庭園・渉渓園での宴は、平安の雅びを今に伝える。
平成六年皇太子殿下御成婚・平安建都千二百年・上賀茂神社第四十一回式年遷宮の際、奉祝記念事業として「賀茂曲水宴」が復活した。
境内の庭園「渉渓園」を流れる小川の流れに合わせて即興で和歌を詠む
始めに昨年、斎王代を務めた女性が今年の歌題を発表。
続いて、衣冠や華やかな女房装束に身を包んだ、六人の歌人が、鳥型の杯「羽觴(はしょう)」が小川を流れる間に、歌を短冊にしたためた。
雅楽が流れ、香をくゆらせた庭園で繰り広げられる優雅な遊び。冷泉家時雨亭文庫の披講や裏千家による野点席が設けられる。
『かもぜんざい』の無料接待がある。(なくなり次第終了) 
 
 ★満開の桜のなか江戸時代初期に名をはせた京都島原の名妓として名高い・二代目吉野太夫をしのぶ「花供養」が四月十四日、北区・常照寺で営まれた。
約三百㍍離れた源光庵前から午前十時二十分に出発して吉野太夫の墓のある常照寺までを、鼈甲のかんざしに赤い着物を身に付けた三人の島原太夫たちが、禿とともに傘持ちなどを従え、高下駄を履き「内八文字」という独特の歩き方で優雅に進む、華やかな太夫道中が行われ、吉野太夫の墓に詣でる。参道の両脇を埋め尽くす吉野桜が見もの。
境内では、太夫による野点席をはじめ煎茶などの茶席が設けられ、舞や胡弓の演奏など諸芸能が奉納される。
二代目吉野太夫は、島原の前身である六条三筋町の太夫で、書画や和歌など文芸に秀で、「寛永の三名伎」の一人とうたわれた。信仰心が厚く、常照寺を開いた寂照院日乾上人に帰依した。多額の私財を投じて「吉野門・赤門」と呼ばれる朱塗りの山門を寄進したことから、毎年この時期に営まれている。
 
 伏見区真言宗醍醐派総本山・醍醐寺で毎年四月第二日曜日(今年は十四日)、豊臣秀吉の「醍醐の花見」にちなんだ「豊太閤花見行列」が行われる。
醍醐は平安時代から桜の名所で知られ、世界文化遺産醍醐寺境内には千本の桜が咲き誇る。
慶長三(一五九八)年春三月十五日に、畿内から七百本の桜を集めて植え、三宝院の建物と庭園を造り、盛大な宴を開いた。
豊臣秀吉が秀頼や北政所淀君、諸大名ら総勢一〇〇〇人を集めて、盛大な花見の宴を開いた故事をもとに、当時の威容の再現を、と一九五一年から始まった恒例行事。
太閤役を先頭に、桃山時代の装束をまとった約二百人の行列が、三宝院唐門を出発、ほら貝などの音色に合わせながら、桜の馬場の桜並木など約一千本が咲き競う境内を金堂なでをゆっくりと練り歩き、特設舞台の舞樂・狂言の観賞や野点を楽しむなど、桃山時代の花見絵巻を今に甦らせる。
 
 ★東山・清水寺舞台の北隣にある恋の神様・地主神社では、四月十四日(日)縁結びを祈願する恒例の春の行事、古来より謡曲や詩歌などで知られた地主権現の「さくら祭」が開かれる。
また有名な一本の木に一重、八重の両方の花を咲かせる「地主桜」は、平安時代嵯峨天皇がその美しさに車を戻して眺めたという故事から、「お車返しの桜」とも言われる。
明治時代初期に枯れ、いったん途絶えたとされるが、一九六二年に同神社に再び移植され、毎年花を付けている。付近では最も遅く開花し、黄桜と共に見応え充分です。
平安時代にちなんだ神事では、本殿に白川女姿による地主桜の枝の献花・献茶や、地主桜を題材にした謡曲「田村」「熊野」の奉納後、俳句の朗詠や縁結び祈願などが行われます。参拝者全員に平和開運御守りが無料で配布されます。
 
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