"おいない"の京都最新情報
【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】
約千匹のコイを用意し、午前八時半の開門から午後五時の閉門まで、初めて終日行った。
僧侶が、一四〇〇年前の中国の故事にちなむ行事であることを説明。
参拝者たちは、宸殿にお参りした後、庭園の小道を進み、手おけに入れたコイを池に放った。
灯火のほのかな明かりに包まれた祭壇「星の座」を前に、狩衣(かりぎぬ)と袿袴(けいこ)姿の男女が七夕を詠んだ和歌を手向けた。
牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の二星に和歌や雅楽をささげ、技芸上達を願う行事。王朝文化をしのばせる年中行事の一つで門人ら一五〇人が集った。
星の座を設けた庭に薄闇が漂い始めると「披講の座」が始まり、あらかじめ出された今年の兼題「七夕月」について詠んだ冷泉為人当主の和歌「秋風にたなひく雲の晴れゆきて月の御舟はいさこき出てむ」など九首が節をつけて歌われた。即興の「流れの座」では、男女が天の川に見立てた布をはさんで恋の歌を贈り合った。
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近世に庶民の間で流行した踊りや音頭に起源をもち,江戸時代の始め、修学院離宮に後水尾天皇を迎えて始められたそうです。
江戸時代のはやり歌や歌舞伎のセリフなどから逐次作詞され,節をつけたものとされる。
楽器を用いず音頭取の音頭にあわせて女性が輪になって踊る静かで素朴なもので,現在,上賀茂と修学院で伝承されています。
踊りの前に松明をつけ,提灯の前に列座し,三方に盃をのせ,給仕から酒を受けて乾盃するといった儀礼が行われ,「近江八景」「四条八景」「菊流し」など伝承されている音頭にあわせて踊りが行われます。京都市登録無形民俗文化財。
たいまつを持って田畑を練り歩き豊作を祈願する「虫送り」の風習を別の形で次世代に継承二〇〇八年から取り組む。
虫おくり火は、稲に付く害虫を追い払うための「虫送り」と盂蘭盆(うらぼん)に霊を送る「送り火」が合体したものと言われる。
当日は、午後五時から近くの樒原児童公園で飲食コーナーなどが設けられる。点灯は午後七時で、約三〇〇本の竹灯籠が棚田にともる。 無料。雨天中止。
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御影堂門は一九一一(明治四十四)年の建造で木造重層入り母屋造り。高さが二十七メートルある。二十六日に同寺や西本願寺、JR京都駅一帯で開かれる「下京・京都駅前サマーフェスタ2017」の前夜祭の一環として、大谷派が実施した。
夕日の明るさが残る午後6時半、LED照明が点灯すると、門が照らし出された。暗くなるにつれ夜空に門の輪郭がくっきりと浮かび上がり、取り付けられた金色の金具が輝きを見せた。
この日は、門東側の緑地帯にある建築家武田五一設計の噴水も青や緑色の光に照らされた。通りがかった国内外の観光客らが門と噴水の「共演」をカメラに収めていた。
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2017年 8 月 23 日(水)
[今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
★境内の無縁仏にろうそくを供える「千灯供養」が二十三日夜、右京区嵯峨鳥居本化野町の化野念仏寺で始まった。
参拝者はろうそくに火をともし、静かに石仏へ手を合わせた。
千灯供養の始まりは明治四十年代にさかのぼり、同寺には約八千体の石仏がまつられている。千灯供養は明治時代に始まったもの。
一体一体ていねいに集められた石仏に供えられたろうそくの火が風に揺れると、 永劫の安息を得た石仏の安らぎに接する思いで、心落ち着きます。千灯供養は二十四日も営まれる。中学生以上千円。愛宕古道街道灯しは二十五日まで行われる。
★化野念仏寺の千灯供養に合わせて、門前の旧愛宕街道では、境内に続く参道は伝統的建物群保存地区に指定されている嵯峨鳥居本地区で、「愛宕古道街道灯し」を愛宕神社一の鳥居から嵯峨・祇王寺に至る一.五㌔の旧愛宕街道沿いに、お地蔵様に見立てた手作りのジャンボ提灯や灯ろうが灯され、古い家並みが残る奥嵯峨地域一帯は幻想的な雰囲気で、柔らかな光に包まれた空間で、癒しのひと時を過ごされては……。瀬戸内寂聴さんの点火で八月二十三日・二十四日:午後七時~九時まで。
2017年 8月 25日(金)
【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】
★吉祥院天満宮の「六斎念仏踊り」
学問の神様・菅原道真を祀る天満宮は全国で一万以上数えられるが、この吉祥院天満宮は道真誕生の地で、境内には道真のへその緒を埋めたと伝えられる胞衣塚(えなずか)がある。少年時代をこの地で過ごしたが、やがて政争に巻き込まれて遠く大宰府に左遷され、死してのち天神となり、天神信仰は全国へと広がった。
八月二十五日の夏期大祭に奉納される六斎念仏は、平安時代に空也が念仏を広めるために始めた踊り念仏が起源とされる。
その後、長唄、歌舞伎などを取り入れて現在の形となる。
京都では祖先供養と結び付き、お盆前後に各所で行われる。
鉦や太鼓をたたいて踊る民俗芸能「六斎念仏踊り」は「発願」に始まり、締めくくりの「回向」まで、曲目が移りながら演じられます。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
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また、お地蔵さんのある所は、それぞれ昔の街道の入り口にあたります。
一一五七(保元二)年、後白河天皇の勅命を受けた平清盛が街道の入り口に六地蔵を分置してから、庶民が六地蔵を巡拝するようになったといいます。
京の六地蔵尊像は人皇五十五代、文徳天皇に仕える参議左大辮、従三位小野篁(たかむら)の作と伝えられ、七十七代、後白河天皇は深くこの六地蔵をご信仰になり、宝祚長久、王城守護、厄病退散を祈願し、また都を従来する旅人たちの路上の安全を願い、また広く一般庶民に二世福楽の利益結縁の御心から、保元二年、平清盛に勅令し、清盛は西光法師に命じて都街道の入り口六ヶ所に六角堂を建てて、一体づつ御尊像を分置された。これにより京の宗教行事として広く庶民に親しまれ、その起源となるのが八百余年の伝統をもつ京の六地蔵めぐりの風習が起こったと伝えられている
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[今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
宵弘法とは「万灯会」の法会で、弘法大師が除災招福を祈念し、毎年一回執り行なわれ、仏さまに多くの灯火をお供えするだけでなく、弘法大師の加持護念のありがたいみ心に対し、報恩の誠をささげ、暗き世を光で照らす真言宗の大切な法会です。
大覚寺でも、この日に参詣者が献灯された、万灯の法会を厳修し、亡き人の追福菩提を祈り、施主の家族の多幸と健康を祈念してまいります。
今では、「宵弘法」として広く全国に親しまれています。
王朝の薫り豊かな大沢池のほとりに施餓鬼棚を設けて、「お施餓鬼」の法会が執り行われる。
提灯が連なり水面を美しく飾り立てた大沢池の中央には、丸太を何本も組み上げた「嵯峨の送り火」の祭壇が、点火の時を待っています。
御影堂において門跡が修法され、施餓鬼棚の前では塔婆に記されたご先祖さまの名前や戒名を次々と読み上げ、ご真言をお唱えして、その菩提をお祈りします。
いよいよ大沢池の中央の送り火の祭壇に火が入れられますと、燃え上がる炎が池の周りを明るく照らし出します。夜空に舞い登る火の粉は、まるで浄土に帰って行くご先祖さまたちの魂のようにも見えます。
宵闇に、み魂送りのために集まった人々は、亡き人々の菩提を祈り、そして燃え上がる炎に明日を生き行く勇気をいただきます。夏の終わり、人々の祈りの中で大覚寺の宵弘法の夜はふけていきます。本年もさまざまな行事があわせて催されます。
文禄二年(一五九三)に豊臣秀吉が、鷹狩の途次に当寺に立ち寄った時、住職宗心が干菜(ほしな)を献じたことにより、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたといわれている。 本堂には、正和二年(一三一三)に花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置し、収蔵庫には、六斎念仏興起書等の諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓及び秀吉画像等を収納している。毎年八月二十日に小山郷六斎念仏が奉納される。