"おいない"の京都最新情報
[今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
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「花灯明」は同寺で行われている「第二十五代専如門主伝灯奉告法要」の協賛行事。昼だけでなく夜も参拝してもらおうと、昨年十月に続いて二度目の開催。期間中、御影堂や唐門、書院など国宝計5棟のほか、重要文化財八棟の建物がライトアップされる。
飛雲閣では三層の楼閣の影がゆらゆらと、周囲の池の水面に映し出された。歴代宗主が賓客をもてなした書院では、クジャクや中国の故事などを描いたふすま絵がぼんやりと明かりに浮かび上がった。
花灯明は二十五日~五月二日、同九~十六日と二十四~三十日の午後七時~同九時半。入場無料。
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[今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
平安時代前期の貞観年間から始まったとされ、一千年以上の歴史を持ち、氏子の安全を祈願する神幸祭(おいで)は松尾大社を出発し、桂離宮の辺りで川を渡り、祭典を行い、六基のみこしは各御旅所に納まる。
神事を終えた神輿六基が拝殿廻しの後露払いをする榊御面との面合わせを行い、榊御面、大榊行列等を前列として上桂一帯の氏子地域を巡行。
やがて桂大橋西岸上流で一基ずつ神輿船に載せられ、ゆっくりと川を下ります。
桜が散り、若葉が萌え出で、菜の花が岸を染める春の香気の中、桂大橋東岸での神輿の陸揚げがまた見事。(陸揚げは桂離宮東側から見学するのが一番)
還幸祭(おかえり)は五月十日に松尾大社に還幸する。
昔は三月中卯日に出御、四月上酉日に祭礼となっていましたが、明治以後四月下卯日に出御、五月上酉日に還御となり、さらに昭和三十六年からは、四月二十日以後の第一日曜日に出御、それから二十一目の日曜日に還御となっています。
出御祭には松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の神輿(月読社は唐櫃)が、ご本殿のご分霊を受けて、拝殿を三回まわった(拝殿廻し)後、順次社頭を出発し、松尾・桂の里を通って桂離宮の東北方から桂川を船で渡り、左岸堤防下で七社勢揃いし、古例の団子神饌を献じた後、四基の神輿と唐櫃とは西七条御旅所に、二基の神輿は川勝寺と郡の末社に至り、そこに駐輦されます。
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【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】
★右京区・清涼寺(嵯峨釈迦堂)で四月十九日、本尊・釈迦如来立像(国宝)のほこりを払う「御身拭式」が営まれた。
平安中期の僧・ちょう然が宋から請来した像で、インド・中国・日本と渡った「三国伝来の生身のお釈迦さま」と言われている。
約八百年前、後堀河上皇のきさきの母の生まれ変わりの牛が死んだ時、釈迦の体を拭ったとされる白い布で、きさきが経帷子を作り、牛に着せて火葬すると、往生したという言い伝えにちなみ、牛が死んだといわれる四月十九日に法要を営んでいる。式は双盤念仏の読経の最中に太鼓と鉦の音がなり、導師が厨子に上がって釈迦如来立像に一年間たまったほこりを丁寧に払った。
続いて毎年この日には身を清めた住職が西芳寺(苔寺)の水に香を溶いた香水に浸した白い木綿の反物で、立像の頭から足までふき取った。拭ったあとの白布を往生浄土を望む参拝者に授与するようになったものです。
※ 式で使った反物は死出の旅路にもたせる経帷子(きょうかたびら)の起源であるともされています。事前に申し込んだ人が経帷子に仕立てるという。
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【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】
★浄土真宗中興の祖・蓮如(一四一五~九九年)の肖像画「御影」とともに、真宗大谷派本山・東本願寺から福井県あわら市・吉崎別院まで往復五百二十キロる全行程を歩いて往復する恒例行事「蓮如上人御影道中」の一行が四月十七日、東本願寺を出発した。
蓮如(一四一五~九九)が他宗から迫害され、一四七一年、京都を追われ越前・吉崎を拠点に教化した苦労をしのぶとともに、その遺徳を伝えるため、吉崎別院で毎年二十三日から営まれる法要に合わせて一七五二(宝暦二)年(約二百五十年前)から続く伝統行事。 今回で三百四十回目を数える。
今年は引率役の僧侶一人と供奉人(ぐぶにん)と呼ばれる門信徒の八人計九人が、東本願寺の大寝殿で「御下向式」が営まれ、御影が輿に納められた後、リヤカーに載せて「蓮如上人さま、東本願寺をおたーちー」のかけ声を合図に一般参加者も随行、約三十人が台車を引き始め、福井県に向けてお寺を出発した。
滋賀県湖西地域を経て二十三日に吉崎別院に到着。往路は琵琶湖西岸など約二百四十キロを一週間かけて歩き、蓮如上人御忌法要の後、別の僧侶や門信徒たちが五月二日に吉崎を発ち、復路は琵琶湖東岸沿い湖北、湖東地域を通って五月九日に御影が東本願寺に戻る。
★木津川市山城町綺田(かばた)の「蟹の恩返し」の物語で知られる蟹満寺で四月十八日、カニに一年間の感謝をし、商売繁盛や豊漁を祈願する「蟹供養放生会」が営まれた。
平安時代後期の今昔物語などに記される「蟹満寺縁起」は、カエルを飲み込もうとしていたヘビに、父が「放したら娘を嫁にやる」と言ったためヘビに迫られた娘が、自分がかって助けたカニによって救われた、という話。
国宝の釈迦如来坐像を安置する本堂前で琴と尺八が演奏された後、観音堂で山伏や僧侶計九人が護摩を焚いた。
祭壇にはタラバカニ二匹を供え、読経が響くなか、全国のカニを扱う関係者や水産業者らが約三百匹のサワガニを次々と放した。
★東山区・浄土宗総本山:知恩院で四月十八日から開祖法然の遺徳を偲ぶ忌日法要「御忌大会」(ぎょきだいえ)が始まった。
御忌は、法然が八十歳で死去して約三百年後の一五二四(大永四)年に始まったとされる。
戦国時代から続く「法然忌」とも呼ばれる知恩院最大の法要で、命日の二十五日まで連日、ご詠歌の奉納や音楽法要などが続く。
法然は一月二十五日に亡くなったが、本来は一月に営む法要が一八七七年から四月になった。
全国から集まった僧侶や壇信徒たちの唱える念仏が、国宝・御影堂に響き、法然の遺徳を偲んだ。
十八日の逮夜法要では、約百人の僧侶が内陣を歩き回りながら念仏を唱える「笏念仏行道」が営まれ、堂内を埋めた約千人の参拝者が手を合わせていた。
★浄土宗総本山の知恩院で十八日夜から、三門上層の仏堂で夜通し念仏を唱える法要「ミッドナイト念仏in御忌(ぎょき)」が営まれる。
僧侶らは仏像の前にろうそくをともし、朝まで厳かな雰囲気の中で念仏を唱える。
極彩色に彩られた国宝・三門の二層内部で、ろうそくとあんどんの明かりを頼りに、僧侶や檀信徒たちが「南無阿弥陀仏」の声と木魚の音が厳かに響いた。
同日始まった宗祖法然の遺徳をしのぶ年間最大の行事「御忌大会(だいえ)」の関連法要で、一九九七年に始まった。午後八時、極彩色の天井絵が施された二階の仏堂に知恩院の儀式を担う式衆約三十人が入り、宝冠釈迦牟尼(むに)仏と十六羅漢像を前に、お経に節をつけた声明(しょうみょう)を響かせた。続いて、大勢の檀信徒たちも一緒に木魚たたいて唱和を繰り返した。十九日午前七時まで唱え続ける。
御忌の始まりを告げる開白(かいびゃく)法要は午後二時から、集会(しゅうえ)堂(御堂)で営まれた。法要は二十五日まで続く。
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