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"おいない"の京都最新情報

    [今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事] 

奈良時代に日本に仏教の戒律を伝えた中国の僧、鑑真(六八八~七六三年)の像が中国で完成し、十六日、鑑真が創建した奈良市律宗総本山唐招提寺を経て、中京区の律宗寺院壬生寺に安置された。
壬生寺と、鑑真が日本に渡航する前に通ったという中国の文峰寺が「姉妹寺院」にある関係から、日中双方の寺院で鑑真像を安置して遺徳をしのぼうと、日中文化交流協会の創立六〇年に合わせて制作された。
像のモデルは、唐招提寺所蔵の鑑真和上坐像(国宝)で、同じ技法を用いて中国で二体を制作。一体は文峰寺に安置し、もう一体は鑑真が日本海を渡ったように、船で日本に運んだ。
壬生寺では、到着した鑑真像を輿(こし)に乗せて本堂に運び入れ、本尊の地蔵菩薩立像の脇に安置。中国の僧侶ら約一〇〇人を含む計約二〇〇人が参列し、中国語による読経もあった。壬生寺貫主は「鑑真和上は日中友好のパイオニア。その精神を引き継いでいきたい」と話した。来年一般公開する予定。
鑑真は中国の律宗の僧で日本の要請を受けて渡航を試み、六度目の挑戦で日本に渡った。戒律を伝え、奈良・東大寺戒壇院を建立、唐招提寺を創建した。

下京区高辻通室町西入ルの繁昌(はんじょう)神社は十七日に開催する例大祭「繁昌祭」で、「湯立(ゆたて)神楽」を行う。
戦時中に途絶えた同祭の神輿巡行が一昨年再開したのに続き、祭りをさらに盛り上げようと氏子らが企画した。
湯立神楽は、巫女(みこ)が釜の湯をササの葉で振りまき、無病息災を願う神事。神社には一九四一年の記録が残っているが、以降は神輿巡行とともに途絶えた。氏子らが、長く蔵に眠っていた湯立釜に光を当てることを企画し、知人の巫女に依頼して神楽を再興する。
当日は巫女が湯立ての後に舞を披露する。湯のしぶきを浴びると厄よけの効果があるという。湯立神楽は午前十時開始。午後一時からは神輿の巡行があり、堤灯や太刀を携えた隊列が綾小路、室町、松原、新町通に囲まれた地域を練り歩く。

上京区上御霊神社は、約四〇〇年前に天皇から寄進された牛車が十八日の御霊祭で、三基の神輿を先導して京都御苑内を巡行する。
神輿渡御の儀。
貞観五年の御霊会が起源であり、都で最古の祭礼といわれています。
御苑の北側にある上御霊神社は皇室との関係が深く、東京遷都直後の一八七〇年ごろまは神輿が京都御所へ渡御したと伝わる。
伝統的な祭りの姿を取り戻そうと、二〇〇九年に神輿の御苑巡行を復活させたが、牛車は今出川御門で待機していた。今年は神幸列の全員と牛車も加わり、平安装束の氏子、神職や担ぎ手など約五〇〇人とともに今出川御門から入る。神輿三基は京都御所北側の朔平(さくへい)門の前で並び、そろって担ぎ上げる。みこしの行列は〇時半に神社を出発し北区一帯を五時間近くかけて練り歩きます。
牛車は一六〇〇年ごろに後陽成天皇から寄進されたとされる。巡行では、道案内の神といわれる猿田彦大神の神体を載せる。

 

伏見区御香宮神社では五月十八日、江戸時代、伏見奉行の圧政に対し直訴で人々を救った七人をたたえる「伏見義民祭」が行われた。
一七八五年(天明五)、伏見の刃物鍛冶文殊九助や農家の丸屋九兵衛ら町人七人は、当時の伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴。小堀政方は罷免されたが、七人も取り調べ中、獄死や客死した。
この先人をしのぶ祭は、毎年開いており、今年で二百二十五回目。
神社境内に立つ石碑前で行われた祭では、神職の祭詞や詩吟の奉納に続き、子孫の参列者が玉串をささげた。