"おいない"の京都最新情報
【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】
新たに清少納言役の女性も登場し、新緑に包まれる川面に優雅な王朝絵巻の世界が広がった。
八九八年に宇多上皇が大堰川で船遊びをした故事にちなみ、一九二八年祭りの復活を望む地域住民らの声を受け、地元の商店や観光関係者が今年二月に「三船祭保存会」を発足した。より多くの人に祭りを楽しんでもらおうと清少納言役の女性を地元から公募し、華やかさを増して再出発を果たした。
八九八年に宇多上皇が大堰川で船遊びをした故事にちなみ、一九二八年祭りの復活を望む地域住民らの声を受け、地元の商店や観光関係者が今年二月に「三船祭保存会」を発足した。より多くの人に祭りを楽しんでもらおうと清少納言役の女性を地元から公募し、華やかさを増して再出発を果たした。
★右京区・愛宕・野宮両神社の祭礼「嵯峨祭」が五月十五日の神幸祭で神輿が嵯峨釈迦堂前の御旅所まで巡行します。
嵯峨祭は室町時代から続き、神仏習合の名残をとどめている大覚寺の祭りとして始まったとされ、古くは約六百余年前の貴族の日記に登場し、元禄四年には、松尾芭蕉が落柿舎に滞在中この嵯峨祭を楽しんだという記録が嵯峨日記にあります。現在は地域の祭だが愛宕神社と野宮神社を祭神として行われる。また、江戸時代まで二基のみこしを所有していた大覚寺に巡行し、祈願を受けている。
愛宕神社みこしが一八一〇(文化十)年、野宮神社みこしが一七三七(元文二)年の製作で、前回の修復が一八四四(天保十五)で両みこし共、痛みが激しく老朽化したので修復された。
嵯峨祭は室町時代から続き、神仏習合の名残をとどめている大覚寺の祭りとして始まったとされ、古くは約六百余年前の貴族の日記に登場し、元禄四年には、松尾芭蕉が落柿舎に滞在中この嵯峨祭を楽しんだという記録が嵯峨日記にあります。現在は地域の祭だが愛宕神社と野宮神社を祭神として行われる。また、江戸時代まで二基のみこしを所有していた大覚寺に巡行し、祈願を受けている。
愛宕神社みこしが一八一〇(文化十)年、野宮神社みこしが一七三七(元文二)年の製作で、前回の修復が一八四四(天保十五)で両みこし共、痛みが激しく老朽化したので修復された。
★北区・上賀茂地域では、葵祭の日に無病息災を願う「上賀茂やすらい祭」が行われる。
サクラの花びらが散る頃に疫神も舞って疫病を撒き散らすと信じられていた。
その疫神を安らかに鎮めるお祭で、どうぞ桜も安らかに舞い散ってほしいという願をこめて、鐘や太鼓を打ち鳴らしながら鬼や花笠が町内を練り歩きます。
流行した疫病を鎮める「鎮花祭」として平安時代に始まった「やすらい祭」は、北区の四カ所に伝わる。(玄武神社や今宮神社のやすらい祭は、四月に行われる)。
祭の行列は住民で構成し、ショウブやヤマブキの造花を飾った赤い花笠を先頭に、稚児と鬼、小中学生の笛方が続き、随所で「いんやすらいや花や今年の花はよう咲いた花や」の掛け声に合わせ、シャグマと呼ばれる鬼が太鼓や鉦を打ち鳴らし、髪を振り乱して踊り、町内の民家で「門ばらい」をして住人の健康を祈った。
サクラの花びらが散る頃に疫神も舞って疫病を撒き散らすと信じられていた。
その疫神を安らかに鎮めるお祭で、どうぞ桜も安らかに舞い散ってほしいという願をこめて、鐘や太鼓を打ち鳴らしながら鬼や花笠が町内を練り歩きます。
流行した疫病を鎮める「鎮花祭」として平安時代に始まった「やすらい祭」は、北区の四カ所に伝わる。(玄武神社や今宮神社のやすらい祭は、四月に行われる)。
祭の行列は住民で構成し、ショウブやヤマブキの造花を飾った赤い花笠を先頭に、稚児と鬼、小中学生の笛方が続き、随所で「いんやすらいや花や今年の花はよう咲いた花や」の掛け声に合わせ、シャグマと呼ばれる鬼が太鼓や鉦を打ち鳴らし、髪を振り乱して踊り、町内の民家で「門ばらい」をして住人の健康を祈った。